聖一国師が歩んだ道

国師誕生地の碑

国師誕生地の碑

藁科川上流の静かな山里栃沢(静岡市)で生まれる

聖一国師は、建仁2年(1202)10月15日、駿河国の藁科川上流、現在の静岡市栃沢で生まれました。

現在、その生家の主屋のすぐ脇には、米沢家が源頼朝に献上したと伝えられる名馬“駿墨”の碑があり、庭先の茶畑の中には、昭和7年の国師650年遠忌法要を記念して建立された“聖一神光国師誕生地”と刻まれた頌徳碑があります。

当時、龍千丸の名で呼ばれていた国師は、5歳になるまで、この静寂優雅な栃沢の里で過ごしました。

現在の鉄舟寺

現在の鉄舟寺

久能寺で法縁の契り結ぶ

生来、頓智、機知に富み、神童のほまれが高かった国師は、5歳のとき久能寺(現在の鉄舟寺)に入り、住職堯辨大徳師のもとで法縁の契りをむすび師の慈愛に満ちた指導を受けました。

国師(当時、円爾と呼ばれていた)はその師の期待に応え、ひたすら研学修道に専念しました。

更に国内の名山で修行

久能寺に在ること13年、国師は更に修行を積むため当時、我が国の名山として知られた三井園城寺や上州長楽寺、鎌倉寿福寺などを巡歴しました。

しかし、殊のほか頭脳優れた国師としては国内の修行では飽き足らず、宋(中国)に渡って仏教の奥義を究め、悟りの道を体得したいと、留学の決意をしました。

国師が学んだ霊隠寺(中国杭州市)

国師が学んだ霊隠寺(中国杭州市)

宋に渡り霊隠寺で学ぶ

嘉禎元年(1235)、宋への留学がかなえられた国師は、明州の阿育王寺、天童寺、或いは杭州の霊隠寺、径山などで修行を積み、径山萬寿寺の名僧無準師範(仏鑑円照禅師)から法嗣の印可を受け、仁治2年(1241)、帰国しました。

東福寺

東福寺

京都東福寺の開山となる

宋から帰った国師の名声は国内に知れ渡り、朝廷や幕府の厚い信任を得て一世を風靡する高僧となり、九州の崇福寺、萬寿寺、承天寺の開山として迎えられました。また当時、京都に東福寺を建立中だった摂政藤原道家の招きに応えて、落慶した東福寺の開山になりました。

東福寺

慧日山東福寺と号する臨済宗東福寺派の大本山。藤原道家が嘉禎2年(1236)、東大寺、興福寺とならぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、聖一国師(円爾弁円)を開山に請うて建長7年(1255)に完成。京都5山の1つとして栄えた。

我が国初の「国師」に

国師はこの間、唐の代、宗帝が径山の法欽という僧に「国一」と贈った故知にならい、道家から聖人中の第一者との意で「聖一和尚」の号を贈られています。

そして、更に応長元年(1311)、花園天皇から日本の僧侶として最高の栄誉である「国師」の号が贈られ、昭和5年には、昭和天皇から「神光」の追謚があって、「神光国師」の号となりました。

「世の中の人たちのためになろうと79年さとりをひらこうと努力してきたが、仏は教えてくれなかった。自分で切り開いていかなければならない。」

「世の中の人たちのためになろうと79年さとりをひらこうと努力してきたが、仏は教えてくれなかった。自分で切り開いていかなければならない。」

ゆいげ残して入寂

その国師が入寂されたのは弘安3年(1280)のことです。その日に書き残したといわれる遺偈(ゆいげ)の写しが、今、狐ケ崎の聖一国師堂内に掲げられています。